サッカーのトレーニング理論は音楽にも有効なのか?

 

W杯終わりましたね。W杯中にいろんなサイトを見ましたがフットボリスタと言うサイトが素晴らしくその中でこんな記事がありました。

 

ゲームモデルから逆算されたトレーニングは日本に定着するか?

 

素晴らしい記事なので是非ご一読して欲しいのですが、要約すると今育成年代でやられているフィジカル強化で筋トレや走り込みをして、技術を高める為にコーンの間をドリブルし、戦術は相手が居ない状態で動きの確認をする。

こういった既存のトレーニングは非効率的なのではないか?と言う事です。

試合では相手は自分たちの希望通り動いてはくれず局面は連続して変わっていくし、相手がコーンの様に立っている事も無いからです。その為に実際に試合状況に近いトレーニングの方が有効であると。そして日本では余りその方法が主流にはなりづらい、となっています。

 

これを読んで日本の文化との衝突だなと思いました。ミヤギさんいるじゃないですか?ベストキッドのミヤギさん。ラルフマッチオに空手を教えるんだけど、車のワックス掛けとペンキ塗りと、床磨きしかさせません。それをミヤギさんに問い詰めて「空手教えてよ!」と言うと「君はもう出来ている・・・」と言うあれです。基本的に日本人にはこの基礎を完璧に出来れば全ての応用も体得している状態にあるのだと言う思想があるかもしくは凄く好きなのだと思います。

ドラゴンボールの亀仙人の修行もそうですし、ハンターハンターでネテロが達人になる経緯は正拳突きをやると言うだけですし、後はジャッキーチェンの酔拳も同様です。野球で名バッターは素振りも美しく出来るはずだとある種信じている部分はあるでしょう。

この深く根付いた思考から逃れるのは中々に大変だろうと思った次第です。

 

さて音楽に例えてもこの例は当てはまると思います。

我々の基礎練好きは中々のものがあると思いますし、毎日せっせとスケールやアルペジオの練習をして無窮動の様なエチュードを弾いたりします。たまに海外のジャズミュージシャンが「俺はスケール練習した事ない」的な発言を言うと、そんな事で弾ける様になるのだろうか?と思う方も多いと思います。基本的にあんまり基礎練をやらないで習熟すると言う過程を知らない。ピアノでいうとバイエルやった後にツェルニーをやると言う様式美があってそれを外れて弾ける様になると言うモデルをあんまり見てない。

しかしながら既にルーチンワークになっているスケールやアルペジオの練習がどれだけやる意味があるのかは正直分からないですし、これを非効率的だと言うのも一定の根拠はありますよね。実際の曲中で練習の様にスケールを弾く事はまず無いですから。

であるならば、実際の演奏に近いシチュエーションで問題を見つけクリアしていく、もしくは理想に近づけていく様な事をメソッド化出来れば有用であるかもしれない。あるいは好きな様に弾くだけとかある種の発想の転換はあっても良いのかもしれない。練習が何かを解決する方法であると言う考え方すら否定しても良いかもしれません。思うにこの辺りの事は曲を書いてライブをやってを繰り返したり、スタンダード練習してセッションでやってみたりを繰り返して、自分の中の習熟に任せていた部分であって、その中身についてはあまり言語化されて語られた事は無いかもしれないですね。